昭和四十八年八月十四日 朝の御理解
御神訓
一、わが信ずる神ばかり尊みてほかの神を侮ることなかれ。
銘々が頂いておる信心又は神様、それを本当に尊ぶという事は、誰でも本当に自分が頂いとる神様、または、自分が頂いておる、何々様が一番良いと思うておるから。信仰心も起きるのでございますから、だが本当に、我が信ずる神をお互いが持っておるだろうか、同時にまた、それを尊んでおるだろうか、私は、ここのところが本当に信じ、尊んでん居れば、自ずと他の神を侮ると云った様な、他の神に対する御無礼とか、不作法とかは、段々無くなって来ると思いますね。
それを、自分の頂いとる神様を本当に尊び切らず、信じ切っておらぬところに、私はそういう風にお粗末、御無礼も出来てくるんじゃないかと思うんです、ところがなかなかそこんところは難しいですね、やはり、自分が頂いておる、そこは、我田引水と云うのですか、自分の田に水を引く、自分が頂いておる神様、仏様をやっぱり、一番有り難いという風に感じますね。
それは良いけれども、なら、他の神様とか、仏様とかというものを侮るような事、そういう心の状態では、おかげにならない、いやしくも人が頭を下げる、合掌して拝む、というのですから、それは、薮神、小神の前を通っても一礼する様な心持ちというものが大事だと、教祖が教えておられるのですから。
それは、低級な、程度の、それは有りましょう、神様にも、仏様にも、程度の低い神様、仏様も有ろうとまあ、思います、かと云うてそれを軽蔑したり、してはいけないと、こう云うのです、人が手を合わせて拝むほどしのものなのですから。
私共は、何時も金光様の信奉者、金光教の信者としての、エリートと申しますか、と云ったようなものは、持っておらなければならん、何時も云うならば、八波のご紋章を背中に担っると云うくらいな信心をはっきり表して行かねばいけません。
あぁ、あの人は違うと思いよったら、金光様の信者げなと、云われるくらいの信心は、銘々が頂いとかねばいけない、ですから、例えば、薮神小神の前を通るでも、一礼して通る様な、私、気持ちになったら、その神様仏様に、もし、しんがあるならです、いや、金光大神は良い氏子をもって幸せだなと、金光大神の名まで出て来る。 ところが軽蔑した、もう金光大神が最高であって他のとはもうつまらんと云った様な、それこそ実意を欠いた生き方は、もし、その神様仏様に、しんがあるとするならです、金光大神はたいした事はないなという風に、又思いなさるだろうと、こう思うです、ね、神様や、仏様。
私共はいつも、八波のご紋章を背負うておる、そういう思いで信心、だから、これは人に対してもそうなんです、何時も金光様の信者であるという、私は、意識に立っとかなければならない、金光様の信心しておって、こう言う事であってはいけない、こんな事であってはつまらんと、自分でも反省の審査をして貰わなければいけません。
今日は、私は、成る程尊ばなければいけないな、馬鹿には出来ないなと思った事が、昨日有るんです、と云うのは、或る方がお参りをして丁度、仏教信者のところではお盆がございます、いわゆる、精霊、御霊様がいわゆる精霊さんが見える、それで、それならお祭りの様な事を、仏教では致します訳です。
昨日、その兄弟の方が信心がない、もとは、金光様の信心しよった、ところが、最近は他の宗教に、まあ迷いが起こったというか、何々会と云う、その御霊様を専門に拝む様な、宗教団体がある、もうそこで、先生格のようになっとる、それで、里帰りして来ては、妹たち、金光様の信心しておるのが判っておるのに、私が今頂いとる仏様というですかね、仏様が、偉い仏様だから、信心しなさいとこの頃から来てから、経文を1時間づつ読まにゃいかん、これはもう、絶対1時間宛読みなさいと云って置いていった、もちろん、読みもしませんけれども。
そげん云うて云ったから、そう言っておりましたが、昨日、電話がかかって参りました、昨日の今日です、今日その人が来るちゅう訳です、それでそのお母さまの御霊様が出て来てから、お経をあげて呉れと云いよんなさるから、あんたんところも兄弟ばみな集めときなさい、今日来るからというて、その大体15日に来るちゅうた、15日、16日は、私、家は絶対、教会の夏のご大祭だからできんよと云うて断ったけれども、しゃっち来るというものだから、兄弟の事ではあるし困った事とは思ったけれども、そげん云うて、今日見えるですからと云うてお届けがあったんです。
それで、私もちっと、もやもやしましてからね、どうしてそげなと、一辺ばさっと断らんかと、わざわざ遠いところからやって来るとじゃから、今日でも、電話架けて断ったらええじゃないか、しかし、もう来るという事になっとりますからと、そうして、まあ問答さして貰うとるうちに、はあ、これは私の感情で物言いよるなあと思うたんです。
だから、向こうが嘘云ってる訳じゃないだろう、お母さんの御霊が、お夢の中に現れて、お経あげてくれと云いよんなさる、だから、自分の里だから帰って来ると、こう云うのです、そりけ、あんた達も拝まにゃいかん、あんた達もお経あげにゃいかんから、この頃やっとったお経の、あれを出しとって、お経があげられるようにせろと、こう云う訳わけなんです。
私は、そういう風に、私もまあ少し乍ら、感情がやっぱり出てから、迷わなければならない、もちろん迷う事もないでしょうけれども、そういう障害、例えば信心の邪魔がはいる時にはです、又迷わなければならん事を聞く時にはです、自分の心に隙がある時と仰有る。
人間そういう隙に乗じて、そういう働きかけがある訳です、 の場合も或る訳なのです、そして、その亡くなられたお母さんというのも、ここで熱心な信心をしておった人でありますからです、よもや娘の処に、何々の仏様に縋がって助けを求めておるのではなくてです、その娘も熱心に、他の教会ではありますけれども、信心をしておったほどしの者であるから、まあ親の御霊、向こうの仏様、何様仏様でしょうね、仏様とこういうの、そういう御霊とか、仏様を使うて、また本当のより良い有り難い信心を判らせようとする働きがあっておるという意味の事を頂いたです。
これはいつでしたかね、北野の日吉さんです、何か大変な、まあ大変難儀な問題で、まだ合楽……当時の椛目にお参りをして来とるけれども、どこのお稲荷さんにもお参りをする、どこどこにもお伺いに行くという時代の時分です、そして、そのお稲荷さんか何かにお参りさせて頂いたら、もうあんたが影にはね、もうそれこそ、天地の神様のごたる神様がついてござるけんで、もう、私、家に参って来る事はいらんがのといわっしゃった、それで初めて金光様の信心がどんなに有り難い信心かちゅう事が判りましたと云う事があったんです。
ならそれとてもです、神様とて、仏様とて、いろいろ位のある神様もある、ありましょう、けどそういう、なら、低級な場合は、仏様、神様と使うてでもです、神様が本当の事をして下さろうとしておる場合があるのです。
私は、その事からも、野口さんところの嫁を貰う時の事を思います、それは大変な熱心な創価学会の信心で、金光教ちゃ低級ではある、もうそれこそ、もうこれ以上の悪口雑言は云われないちゅうくらいに、手紙にこんなに厚くもう、桂子さん達は、一辺見てから、体ががたがた震え出したという位にじゃった。
自分がその、どうでも貰うて貰わんならんという家に、その手紙を出す位に、熱心にその信心を頂いとった、だからもう、それだけでも、縁談を破談にしようか位に思うた、けども、神様はそう言う事じゃない、それでも結構信心がある事が有り難いんだと、もう云うならば、創価学会の仏様を使うてです、信心の手ほどきをさしてござるというのですから有り難い、だから、現在の暁子さんいうのが嫁、だが誰よりも信心の進み方が早いです。
理解力が他の仏様、神様で、稽古しとりますからね、だからそれを、私共が小さい心でですよ、小さい心で、そげな創価学会のこつば、信ずるごたるとは、貰いなさるなと云うとったら、それでお仕舞になってしまうでしょう。
それが、昨日、私が少し感情が出た、そげな事云うちから、電話架けて早う断らんのち云うちから、断らしとったら、それぎりである、まだ元々は、金光様の御信心を頂いとったほどしの人であるから、そう言う様な事でも、遠方からわざわざ来らしてでもです、金光様の信心の有り難さが、もう一辺有り難さが判る様な働きを、おばあちゃんの御霊やら、向こうの仏様を使うて、天地の大きな親神様が、そういう働きをして下さっとるという感じでした、ですから、改めました、ああこれは、自分の感情が出とったなと、詫びさして頂いて、お取次ぎさし頂いたですけれども。
ですから、決して侮ることは出来ないでしょうが、もう、摘み切るように捨ててはいかんでしょうが、ね、やはり、私共が、私共が頂いとる神様は愈々、絶対のものと、信ずる事、又それを尊んでおるという事は、より信じさせて貰える、より尊ばして貰える、信心を頂いて行かんならん事は勿論です。
けど、人間ですから、何時どういう隙が出来るやら判りませんから、隙の時に迷いが起きるこつやら、又間違った事やらの、いわば宗教的な事が這入って来る事があるかも知れませんけれどもです。
それとても、薮神子神ですらも侮ってはならないと仰有るくらいですから、人がそれを拝んでおる、しかも沢山の信者を持っておる、しかも沢山の信者もなんとはなしに助かっておるというほどしの、仏様なのですから、それはやはり馬鹿にする事も、摘みきって捨てる事もやはりいけない、一応はこう受け入れてですね、元々金光様の御信心を頂いておった兄弟ですから、その兄弟の上にも、金光様の信心が愈々偉大であり、愈々有り難いという事を判らせて頂き、お母さんの御霊が夢の中にでも働いて下さっているんだという事を、私は思はして貰う。
そして、昨日、今日この御神訓を頂いて、そういう意味でも、成る程自分の信ずる神ばかりを尊ぶんでなくて、人が拝んでおられるほどしの仏様であるならば、神様であるならば、やはりそれを拝んで頼むという事じゃない、と云うて例えば、軽蔑したり、侮るという事は、これは御道の信心に悖ると云う事であります。
愈々だから、私共が大きゅうならにゃいかん、愈々私共が豊かな信心をさして頂いて、その豊かな心の中にも、絶対のもの、その我が信ずる神とこう仰有るが、その我が信ずる神が、愈々最高に信じさせて貰える、そして、同時に最高に尊ばして頂ける、日ごろ手厚い信心をさせて頂かねばならん事が判ります。 どうぞ。